大判例

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熊本地方裁判所 昭和33年(わ)76号 判決

被告人 園田清充

大八・一〇・六生 農業兼熊本県々会議員

宮本亥吉

明三三・四・二二生 無職(元熊本県企画調整室長)

主文

被告人園田清充を懲役壱年六月に

被告人宮本亥吉を懲役拾月に

各処する。

但し、被告人宮本亥吉に対しては本裁判確定の日から弐年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は、被告人両名の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

一、被告人園田清充の経歴並びに県議会における地位について、

被告人園田清充は本籍地において亡清嗣の長男として生れ、本籍地の小学校から熊本市所在の九州学院に進み、更に法政大学に入学したが中途退学し、その後昭和十五年から同二十年八月の敗戦迄前後五年有余の軍隊生活を送り、戦後は本籍地において農業を営んでいたが、昭和二十二年四月、熊本県々会議員に立候補して当選し、以降、現在迄三期にわたつて熊本県々会議員の地位にあり、昭和二十三年には本籍地の豊野村農業協同組合長、昭和三十年四月には下益城郡畜産組合長となり、現在に至つている。ところが、被告人の亡父が旧民主党の下益城郡幹事長をしていた関係上、被告人も又旧民主党系に属し、昭和三十一年三月保守合同のため自由党と民主党が合併して後自由民主党熊本支部の幹事長となり、同年七月自由民主党県会議員団が分裂して右幹事長の職をやめ、その後は有志で県議会の中に公友会を結成し、右公友会は当時の桜井三郎熊本県知事の県政与党として熊本県政に重要な役割を演じ、就中被告人園田は公友会の重鎮として県政に参画していた者である。偶々昭和三十二年十一月頃から国会がその年の十二月に解散されるという風評を生じ、元代議士吉田安は立候補を断念して同人の選挙地盤を被告人園田清充に譲り渡すことを約して、被告人園田の出馬を促し、こゝに同被告人は衆議院議員として立候補することを決意するに至つたものである。

二、被告人宮本亥吉の経歴並びに熊本県庁における地位について、

被告人宮本亥吉は、本籍地に亡父岩吉の二男として生れ、本籍地高等小学校を卒業して、菊池郡合志村にあつた合志義塾に入学したが一年で中退し、大正七年六月志願兵として佐世保海兵団に入団し、海軍軍人として六年間の兵役を終えた後、大正十四年六月熊本県巡査を拝命し、昭和六年巡査部長、昭和十一年警部補、昭和十五年頃今津警察署長、昭和十七年警部、昭和二十年一月に山鹿勤労動員署で県属を拝命し、同時に警察官を退職した。その後は熊本県の動員係長、宇城勤労所長となり、昭和二十二年四月に一旦退官し、同年六月再び熊本県衛生部庶務課長、同二十六年四月労働部長、同二十九年三月県知事室秘書課長、同三十年六月頃知事公室長、同三十二年六月企画調整室長となり、本件当時その職にあつたものである。尚、被告人宮本は昭和二十二年四月当時の官選知事桜井三郎が知事選挙に立候補して以来、昭和二十六年、同三十年の各任期満了による知事選挙に立候補した際にも、自らの公務員の職を抛つて桜井の選挙運動に従事した事情にあり、桜井知事が当選する毎に異例の昇進をなしてきたもので、本件当時における被告人宮本の地位である企画調整室長は、知事副知事に対する各庁の内外からの陳情に対する緩衝地帯の役割をなし、又県庁事務の総元締の地位にいて、被告人宮本に対する桜井知事の信任は特に厚く、従つて県政与党たる公友会議員とは公私ともに密接な関係を持ち続けてきたものである。

三、被告人両名と藤本正一との関係、

前叙のとおり、被告人園田清充は衆議院議員として立候補の決意をなしたが、先立つものは金であると考え、衆議院議員選挙に要する費用を捻出する必要に迫られ、その方法として、以前に某県会議員が県営住宅用地を県に対して売り込み、その際地主側の値段と県側に売込む値段との間の差額金乃至は手数料を儲けた事実を聞知し、之と類似の方法で県営住宅用地を地主から安く買入れて県に対し高く売りつけてその差額金を儲けようという考えを持つに至つた。そこで、まず被告人園田は熊本県企画調整室長たる被告人宮本に対し、「衆議院議員選挙に出馬するので、その資金を作るために県に土地を売り込もうと思つているが、ひとつ協力して貰えないだらうか。」とその意を打ち明けて協力を依頼したとき、被告人宮本は「出来るだけ協力をしよう。」「物心両面の協力を惜しまない。」旨を誓つたのである。その頃、被告人宮本の警察官時代の同期生で、当時御船警察署長を停年退職した藤本正一が不動産売買並びに斡旋を業とする合資会社相栄商事に勤めるようになつたということで、被告人宮本の所に挨拶に行き、その後も屡々藤本正一は被告人宮本の所に出入りする様になつたが、元来藤本正一は被告人園田とは郷里が同じ下益城郡であつた関係で、被告人園田とも自然相知る様になつた。そこで被告人宮本は右藤本を本件土地売込みの仲介人として仕立てることを考え、被告人園田に対しても「土地売込みについては、被告人園田は県会議員であるから、同被告人が直接やるのはその地位から考えて適当ではないので、誰か世話をする者が必要である。幸い御船の警察署長をしていた藤本正一が警察をやめて、自分の所に出入りしているから、藤本に世話をさせることにしよう。」という趣旨のことを話し合い、ここに被告人両名は藤本正一を表面に立てることに意見の一致をみたものである。

四、県営住宅用地に対する予算措置について、

被告人園田の県営住宅用地売込みに際しての最も重要な準備行為の一つは、県の住宅用地購入についての予算の編成であるが、これについては昭和三十二年秋頃、河端脩財政課長が被告人園田に対して「あなたの分はでていないが、要らないのですか。」(あなたが利権稼ぎで儲けるための予算の措置の要求がなされていないが、その必要はないのですか)との趣旨の事を述べたことがあるので、被告人園田は被告人宮本に対し、藤本正一のいる前で土地でも見つけて儲けさせて貰おうかと話し、その後早速財政課長の上司である総務部長渋谷保にも予算措置を依頼するために、同年十一月下旬頃、当時病気で欠勤し、自宅において療養中であつた同部長を自宅に訪ねて面会し、同部長に対し、県営住宅用地を県で買収して貰うについて予算を組んで欲しい旨を告げたところ、同部長は「自分の方は財源に支障はないから建築課長が良いといえば、財政課長にも一言話しておいてくれ。」と答え、ここに同部長は被告人園田の要求する県営住宅用地買収費の予算措置について内諾をした恰好になつた。そこで、被告人園田は被告人宮本に対しても、右の総務部長との諒解事項を告げて協力方を依頼し、財政課長に対しても後述の清水町山室団地の話があつた頃「山室に県営住宅用地がある。建築課にも話をして貰おうと思つているが、総務部長には話をしておいたから建築課が良いといつたら予算を頼む。」旨、用地買収費を予算に組む様に要求した。

五、いわゆる山室団地について、

藤本正一は、偶々警察官在職中の部下で、当時同様に退職していた元川尻警察署長園田義雄なる者が、藤本正一の自宅建設用地として熊本市清水町山室所在の土地を右藤本に斡旋したが、同地は藤本個人の住宅地としては値段の点で難色があり、結局藤本は被告人両名の意嚮を察してこれを県営住宅用地として県に売込むことを企て、そのことを被告人宮本に報告し、同被告人はこの話を被告人園田に通じた。そこで被告人園田は早速藤本正一と共に右山室団地を視察のため、昭和三十二年十一月下旬頃、熊本県庁建築課住宅係長叶力を同道して同団地を見分したが、その結果叶係長は右団地の地形が悪いため造成費が高くつき住宅用地としては不適地であると判断し、建築課長久保田正光も同年十二月一日頃、被告人園田の要請で同団地を視察したが、同課長も叶係長と同じく県営住宅用地としては不適地であると判断したので同課長は同月二日頃、被告人宮本に対し右の事実を報告すると共に、同課長の上司である隈部土木部次長と同道して、被告人園田の止宿先である雅仙荘に右山室団地が県営住宅用地としては不適地である旨を告げた。ところが、被告人園田は右の報告を受けて大いに憤慨し、直接桜井知事に対して右山室団地の購入方を交渉したが、知事もまた建築課当局の判断が不適地であれば致し方ないとして、被告人園田の右要求を容れるところとはならなかつた。

六、清水町万石の土地が県営住宅用地の対象となる迄の経緯、

被告人園田と同じく熊本県々会議員で且つ公友会々員であつた瀬口竜之介は、予て熊本市東部の健軍方面が飛躍的発展を遂げてゆくのに反して、同県議の出身地である清水町方面が何らの発展を見ないまゝに放置されているのを不満としていたが、地元民の間にもかねてから清水町方面の発展のために県営住宅の誘致を希求していたため、同県議は昭和三十二年十一月下旬頃地主等に対して、同町方面の土地を県営住宅用地として売却の意思があるか否かについて質し、その際坪当り千五百円で売買することに一応話がついた。そこで同県議は、この土地売込みが被告人園田のために何らかの利益になれば一石二鳥と考えて、清水町万石一帯の土地を県営住宅用地として県に売却することについての話を被告人両名に持ちかけた。被告人園田は、さきに清水町山室団地が県営住宅用地として不適地であると建築課当局から判断された矢先であつたから、早速瀬口県議宅を訪れ、その際偶々本件用地の地主の代表者の幾人かが同県議宅に来ており、万石の土地を県営住宅用地として坪当り千五百円程度で売る話をしていた。瀬口県議はその席上被告人園田を右地主等に紹介した上、同被告人に対し土地売込みに協力してくれる様に依頼した。ところで、被告人園田は同年十二月三日頃の午前十時頃、瀬口県議と共に久保田正光建築課長を同道し、本件宅地の所在地である熊本市清水町万石方面を実地見分したが、その際、被告人園田は久保田建築課長に対し前記地主等の坪当り千五百円の売価のことを秘し、本件土地の所在地から北方の清水キヤムプ附近は坪当り三千円位で、下の方は坪当り三千五百円位するという趣旨のことを申し向けて、暗に本件宅地もまた坪当り三千円程度の価格であるように久保田建築課長をして信用させようとし、同課長も同被告人から右価格を聞いて、本件宅地は地主等がその程度の価格で買収に応じ得るものと考え、その場において被告人園田に対し「これは適地だから帰庁して財政課長とも相談する。」旨返答するに至つた。そこで、被告人園田は同日午後三時頃被告人宮本を企画調整室に訪ね「万石の土地を久保田課長と一緒に見に行つたが、久保田課長も適地だといつているのでひとつ世話をしてくれ。」と依頼し、右報告を受けた被告人宮本は、即該久保田建築課長に対して「万石が適地であれば、予算の枠で買う様にしてやつてくれ。」と命じた。

七、本件宅地に対する予算編成の経緯、

昭和三十二年十二月三日頃か四日頃の午後三時頃、久保田建築課長は、当時税務講習所で昭和三十二年度追加予算案を作成していた河端脩財政課長から同講習所に呼ばれて、本件宅地の予算のことについて協議を受けた。その際、河端課長は「総務部長の諒解はついているが、同部長から言われて園田県議の土地のことについて、予算を組まねばならぬが土地が良いか悪いか。」と久保田課長に質問した。久保田課長は「園田県議の関係している万石の土地は県営住宅用地として適地だ。」と答え、次いで河端課長は値段はいくら位にしたらいいかを尋ねたところ、久保田課長はとつさのことではあり、附近の売買価格も未調査で、また本件土地の地主達が坪当りいくら位で売却するのかも知らなかつたが、被告人園田において坪当り三千円乃至三千五百円で買い上げて貰いたい様な意嚮であつたから、その価格を信用してそれに近い坪当り二千八百円位でいいのではないかと判断し、河端課長に対して「坪数は五千坪ということだから五千坪とし、単価は園田さんの方で坪当り三千円といつているが一応二千八百円で組んだらどうだろう。」と答え、河端課長も久保田課長の言をその侭信用して坪当り二千八百円、五千坪分の予算案の編成を財政課員に指示して作成させ、久保田課長も建築課々員の寺辻主事をして坪当り二千八百円、五千坪分の追加予算概算書を作成させて、右予算案は同年十二月十五日から同月二十一日迄開かれた十二月定例県議会において可決成立するに至つた。

八、本件宅地に対する地主側との交渉の経過、

昭和三十二年十二月五日乃至六日頃、被告人園田は、藤本正一が被告人宮本の命で雅仙荘に被告人園田を訪ねてきた際に、土地購入について被告人宮本の態度がはつきりしないということを聞き、財政課に対し、「建築課から予算の要求があつたか否か。」について尋ねたところ、河端財政課長は「清水町万石の土地のことなら一千万円ばかり予算が組んである。」旨答えたので、県側としても本格的に万石の土地を買つてくれることが判明した。一方、同年十二月十日頃、瀬口県議は本件土地の地主代表馬場忠之、下村政記及び篠田鶴三を同人宅に呼び集め、清水町万石の土地を県営住宅用地として売り込む件につき相談をし、地主等は土地の良否による価格の較差は別途に考えるとして、同年十一月下旬頃一部地主との間では既に内定していた坪当り千五百円の線で、県との間に直接売買契約を締結することに同意した。その会合の終り頃には、被告人園田も瀬口宅を訪れ、坪当り千五百円の線を了承し、本件土地売買に尽力することを承諾した。その頃、被告人園田及び被告人宮本は県営住宅用地を、一旦藤本正一の関係する合資会社相栄商事に買いとらせ、然る後に相当の利潤を折り込んで県に高く売り付けようと考えて、熊本第一信用金庫専務理事甲斐敏雄を訪れ、同人に対し、被告人宮本名義において四百五十万円、同人の妻名義において四百五十万円、計九百万円を同金庫から借り受ける交渉をしたが、結局右金員は借り受けることを得ないで、相栄商事が本件土地を買上げるための資金を入手することはできなかつた。その後、藤本正一は同年十二月中旬頃、被告人両名の命で瀬口県議宅を訪れたが、その際瀬口県議から地主代表の馬場忠之、谷清士等に対し「この人は元警察署長をやつていた者で、今度土地売込みの斡旋をする人だ。」と紹介され、その席上現場の見取図等で説明を受け、二、三日後再び瀬口県議宅を訪れ、同所において地主代表と会合したが、そこでは既に瀬口県議と地主代表者間で折衝の結果、地主側の増額要求によりさきに内定した坪当り千五百円を坪当り千六百円にする様に決定していたらしく、瀬口県議から「値段は坪当り千六百円だ。」といわれて価格を了承し、なお地主側が土地の良否があるから三段階位に分けてくれという要求したのに対しては、藤本はこれは地主側の内部的な問題として処理してくれる様にと地主側の了解を求めた。斯くして、藤本正一は土地売買に必要な書類の作成にとりかかることとなつたが、勿論その日は雅仙荘に被告人園田を訪ねて、坪当り千六百円の価格に落着き決定したことを報告し、翌日県庁において被告人宮本に対しても、同様地主側は直接県に対し坪当り千六百円で売却することを承諾した旨を伝えた。

九、本件宅地の売却手続及び売買型態の変遷について、

藤本正一は、被告人両名の命で売買手続を進めることになつたが、被告人両名及び藤本正一は前叙のとおり、最初は藤本の関係する合資会社相栄商事において一旦買受け、その資金は前叙の熊本第一信用金庫から借り受ける九百万円をもつてこれに充てる旨の了解の下に手続を進めることになつていたので、藤本正一は昭和三十二年十二月十六日頃、印鑑証明をとるからといつて地主達から印鑑を集めてこれを預り、翌々日頃、直ちに高木達也代書人の事務所において、本件土地を一旦相栄商事が買い取り右商事に所有権移転をなし、右商事はその後県の方に所有権移転をなす構想の下に各土地所有者たる地主等から藤本正一宛の売渡証書十九通(証第四十九号)を昭和三十二年十二月十八日付で作成し、特に藤本正一の要求で金額欄は空欄としたまゝにしておいた。然し乍ら、この取引方法では、前叙のとおり被告人宮本において資金の調達が不可能となり、その上、右取引は私人間の取引となるので登録税だけでも七十万円程を要し、また地主側の相続人が遠隔の地に居て相続登記もなされていない土地もあり、売買契約が二段階となるためその手数もまた二倍になりかねないので、到底年内には県に売込みを終り、県の支出行為を完了させるに至らないのでないかと危惧されるに至つた。そこで藤本正一は十二月二十日頃、被告人宮本に対し、相栄商事が一旦買取る様な取引方法では到底年内に金がでる段階迄はゆけそうにない旨を具申したところ、被告人宮本は「前記の方法が最も理想的な売買取引の方法だが、それが難しければ、地主と県と直接売買契約を結ぶ外はない。」といつて売買契約の形態の変更方を示唆し、次いで十二月二十二、三日頃、建築課住宅係長叶力に県営住宅用地の売買契約書、土地譲渡承諾書等の用紙を取り寄せさせ、右用紙を藤本正一に交付して、県と地主との間の直接売買契約の方法で手続をすゝめる様に命じた。藤本正一は高木代書人を連れて地主宅へ赴き、売買契約書を作成するから権利証と印鑑を持つて集つてくれといつて地主等を集め、同人等をして売買契約書、代金受領のための委任状及び売渡承諾書に押印させたが、その際同人も実際は被告人園田が県側に売却するときに鞘稼ぎをすることを知つていたので、被告人両名の示唆通り、地主等に対しては実測面積と台帳面積とが異るから売買契約書の代金額欄はあとで県側で書き込み、その契約書の一通は地主達にも交付するから右契約金額と坪当り単価欄は空白にしておくから、と言葉巧みに欺いて代金額欄空白の売買契約書等を作成し、十二月二十七日頃、被告人園田を止宿先の雅仙荘に訪ね「五千坪の中三千坪位しか書類は揃はないが、全部揃つてから手続しようか。」と言つたところ、被告人園田は「年末迄に地主達も金が要るだろうから。」といつて、三千坪のみの手続をなすことを要求した。

十、被告人等の共同加功乃至騙取手段、結果について、

以上のいきさつから、ここに被告人両名及び藤本正一は順次共謀の上、被告人園田は昭和三十二年十二月二十七日、久保田課長に対し万石の土地の予算は坪当り二千八百円で五千坪分の予算が組んであることとを確めた上、藤本正一をして村上貞雄所有の熊本市清水町万石字北津留三七二番地外十二筆(地積合計三千七十八坪)分の関係書類を企画調整室長室に持参させ、被告人宮本は同室に住宅係長叶力を呼びつけ、被告人両名及び藤本正一は叶力を連れて知事室に入室し、同所において被告人宮本は叶係長に対し、藤本の持参した書類が完備しているかどうかの調査を求め、叶係長は藤本の提出した書類を審査した上、契約書の契約金額及び土地譲渡承諾書の坪当り単価が書いてないから契約総額と坪当り単価を書き込む様指示したところ、被告人園田においては真実は土地所有者が坪当り千六百円で県に対して直接売却する意思であることを知悉しているにも拘らず、その事を秘して坪当り単価二千八百円だと申し向けて、叶係長をして真実坪当り二千八百円で土地所有者と県との間で直接売買契約が成立しているもののように申し欺き、叶係長をしてその場で坪当り価格の二分五厘の手数料七十円を右二千八百円に加算させると共に、藤本正一をして右土地譲渡承諾書の坪当り単価欄に「二千八百七拾円」と記入させ、更に被告人両名は叶係長に対し、右書類により伺書の起案を促し、急いで決裁に廻す様督促したので、叶係長は建築課の自席に戻り、久保田建築課長と相談の上同課々員藤井英太郎、角田伝亮に命じて「公営住宅建設地売買契約並びに同代金支出について」と題する伺(証第六号)を起案作成させ、次いで監理課経理係の新開春男をして藤本正一名義の代金請求書(証第十四号)を起案作成させ、請求書については不備な点があつたが、叶係長が責任を以て後日追完することにし、その際には、全然登記嘱託した事実もないのに特に久保田課長において「登記嘱託中であることを証明する」旨の証明をなさせ、一応形式的に右伺書並びに請求書は完備したかのようにして上司の決裁をなさしめた。斯くして、被告人両名は藤本正一と共に、真実は土地所有者達が坪当り千六百円で県との売買契約をなすことを承諾しているにも拘らず、右事実を秘し、しかも土地所有者達が坪当り千六百円で売買契約をなすことを承諾していることを知つていれば到底知事及び出納長が前記書類の決裁をなさず、また支出もしなかつたことが明らかであるのに、恰も土地所有者達が坪当り二千八百円で県との間に売買契約を締結したかの如く装い、代金支出命令の権限ある熊本県知事桜井三郎、出納長渕田寛をしてその旨誤信させ、前記伺書及び請求書の決裁をさせて、坪当り単価二千八百円、手数料七十円計二千八百七十円の価格で、三千七十八坪分、総額合計金八百八十三万三千八百六十円の支出をなさしめ、即日藤本正一において右金額を受領し、因つて土地所有者と県との間の真実の売買契約額金四百九十二万四千八百円との差額金三百九十万九千六十円を騙取したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断)

一、弁護人は本件取引行為は、藤本正一個人乃至は合資会社相栄商事が、土地所有者から一旦買受けて所有権移転をなし、然る後に県に対して売りつけたものであり、その所有権移転登記手続をなすに際して本来の建前としては土地所有者たる地主等から藤本正一に一旦移転登記をなし、然る後に更めて県に移転登記をなすべきであるが、便法上土地所有者から直接県に対して移転登記をなしたものであり、中間者たる藤本正一に対する登記はこれを省略したものであり、民法上所謂中間省略登記をなしたものである。従つて、一私人である藤本正一乃至は合資会社相栄商事が土地所有者から安価に買受けて、そこに若干の利潤を含めて県に売りつけることは、仮にその利潤が甚だしく大きいものであるとしても、その利潤の幅が妥当であるか否かは別として、そのこと自体を違法ということはできないと主張する。

中間省略登記というがためには、まず土地所有者から藤本正一個人乃至は合資会社相栄商事に所有権移転登記がなされ、然る後に県に対して所有権移転登記がなされるという本来的な建前にあるものを、中間者である藤本正一乃至は合資会社相栄商事に対する登記を省略して、土地所有者から県に対して直接移転登記をなすことを言うのは勿論である。然るに、前掲証拠を綜合するも右の様な二段階の移転登記手続がなされることが建前とされた事実は認め得ない、尤も、前掲証拠によると、藤本正一個人が、土地所有者に対して何の相談もしないで、土地所有者から藤本正一個人に対する売渡証書を一旦作成しかけた事実は之を認めることができるが、右の事実は土地所有者たる地主も之を知らず、また県側においてもその様な売買型態がなされていたことを知つていた事実はなく、しかも右三者間において相互に中間省略登記についての話し合いがあつた事実もない。却つて、土地所有者たる地主は、県と直接取引をし、また県は土地所有者たる地主との直接取引であると認識しているのであつて、少くとも地主側は勿論、藤本正一も同人が単なる仲介人なり斡旋者なりの立場にあるものと認識して取引のなされたことが明らかである。中間省略登記の主張は、右の様に本来の建前としての三者間における順次の売買契約乃至移転登記手続の事実が認められないので、その前提を欠くものというべきである。よつて弁護人の右主張は理由がない。

二、弁護人は、本件土地の坪当り価額二千八百円は正当な価額であり県としては正当な価額で購入すれば足り、坪当り価額二千八百円の価値あるものをその相当価額で購入したにとどまり、県としては何ら財産上の損害を受けておらず、従つて詐欺罪の構成要件を欠缺するものであると主張する。

よつて、証拠を検討してみるに、防衛庁事務官である証人前田信雄の第五回公判調書中の供述記載によれば、本件土地の所在地である熊本市清水町万石字北津留の近傍地である清水町兎谷附近の元アメリカ駐留軍キヤムプ地跡十四万五千坪を買収した際には昭和三十一年十二月現在坪当り千三百五十円で防衛庁が買上げており、熊本市建築課の証人山隈由人及び同後藤透の第五回公判調書中の供述記載によれば、本件土地の隣接地である清水町万石字北津留所在三千二百五十坪を市営住宅用地として買収した際には昭和三十一年二月現在坪当り千二百七十円で市が買上げた事が認められる。又、熊本税務署所得税課資産税係長宮崎正三作成の鑑定書によれば、本件土地所在の近傍地の価格については、小面積のものが売買されるときは坪当り二千五百円乃至三千円もする売買例が相当多くあるが、数千坪に亘る広大な地域を売却するに際しては昭和三十一年度中の防衛庁の買収実例が坪当り千三百円、昭和三十二年度の市営住宅用敷地としての買収の実例が坪当り千二百七十円であつたことから考えて、本件土地は坪当り千五百円乃至は千六百円が相当と評価し、又熊本国税局直税部資産税課大蔵事務官高森大三作成の鑑定書によるも、本件買収当時の価格は坪当り千五百円乃至千六百円が相当と評価している。熊本市役所建設部建築課に対する検察事務官の問合はせの結果と熊本県建築課長久保田正光の検察官に対する昭和三十三年二月十九日付供述調書とを照合すれば、固定資産税の評価格の約三倍が本件土地の価格決定の資料となり、又賃貸価格に三千五百倍乃至四千倍の倍率を乗じたものも同様に土地価格決定の資料となるが、右の方法によつて算出した本件土地価格は坪当り千円に満たないものとなる。久保田正光の前記検察官に対する供述調書並びに同人の第十回公判調書中の供述記載によれば、右久保田建築課長は、住宅金融公庫の熊本市内用地費の標準価格が二千四百円であり、その後、一年に十九%位の値上り傾向にあるので、本件土地の坪当り価格は坪当り二千八百円が正当な価格であると供述しているが、住宅金融公庫熊本支店次長二越正信の検察官に対する供述調書によれば二千四百円という価格は、家屋を建築するに際して公庫が融資をする場合の標準価格であり、坪当り二千四百円以上に買受けた場合も、右の価格以上には評価せず、融資は二千四百円の七割五分で押えることになつており、二千四百円というのは、右の如き意味においての数字に過ぎないのであつて、土地の価格とは直接の関連を有しないことが明らかである。更に、株式会社日本勧業銀行々員の証人河野弘善の第十二回公判調書中の供述記載によれば本件土地の隣接地の価格は坪当り二千五百五十円ということであるが、この価格は本件土地が、一応県当局により坪当り二千八百円で買上げられたことを考慮にいれて、その後右の価格の影響で他の未買収地の値段が吊り上げられたことをも考慮にいれた上で算定された数字であり、尚右評価額は本件畑地を造成して宅地となし、道路を造り、水道などの設備をなした上での宅地としての評価額である。従つて、本件土地は、県が広大な地域を買収するについて坪当り二千八百円の価格が売買実例として右価格が創設される以前のことであり、又若干の造成費をも要することを考慮にいれるなら、前記坪当り二千五百五十円の価格が、本件土地の価格決定にあたつて何らの基準とはなり得ないものであることは明らかである。このことは、証人河野弘善も又自陳するところである。同証人の供述記載と、防衛庁の坪当り千三百円、市の坪当り千二百七十円の各売買実例しかなかつた本件当時の状況とを勘案すれば、寧ろ坪当り千六百円の価格こそ当時としては、妥当な価格といいうるのである。

仮に、坪当り二千八百円が正当な価格であつたとしても、本件事案は、被告人両名及び藤本正一が本件土地を坪当り千六百円であることを知り乍ら、この事実を秘して、県知事並に出納長に対して恰も土地所有者は坪当り二千八百円で売買契約を締結することに同意しているものと誤信させて、その旨県知事の決裁を受けて出納長から現金の支出をなさしめたものであり、県当局において、土地所有者が坪当り千六百円で売買契約を県との間に締結する意思であつたことを知つていれば、県知事も決裁をなさず、出納長も又現金支出をなさなかつたであらうということは、証人桜井三郎の第十七回公判調書中の供述記載及び同人の検察官に対する供述調書、並びに証人渕田寛の第十回公判調書中の供述記載及び同人の検察官に対する供述調書によつて明らかである。してみれば、坪当り二千八百円の価格が、仮りに弁護人主張のように正当価格であるとしても、以上の事実からこれをみれば、右の事由は本件犯罪の成否になんらの消長を齎らすものではない。よつて弁護人の右主張も理由がない。

(法令の適用)

被告人両名の判示所為は、刑法第二百四十六条第一項第六十条に各該当するので、所定刑期の範囲内において、被告人園田清充を懲役壱年六月に、被告人宮本亥吉を懲役拾月に各処し、被告人宮本に対しては情状刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二十五条第一項により本裁判確定の日から弐年間右刑の執行を猶予する。訴訟費用は、刑事訴訟法第百八十一条第一項、第百八十二条を適用して被告人両名の連帯負担とする。

(量刑について)

被告人園田は、本件騙取した金員の内約二百万円を自己の用途に費消し、右相当額の損害を熊本県に与え、しかも右金員は県民の血税から出でたことに思いを致すとき、その刑責の軽からないものがあり、被告人宮本は本件騙取した金員を自己の用途に使用した事実は認められないから、被告人園田に比しその刑責は相当軽く評価するのが相当である。それで、被告人両名に対しては前段のように刑の量定をすることにした。

よつて主文の通り判決する。

(裁判官 山下辰夫 三村一恵 小林優)

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